5. 生産・物流体制整備、合理化
「酒類業界過当競争へ」
■昭和43年ごろ
酒類業界の成長は鈍化傾向となり、全酒類とも市況が伸び悩む中、販売競争は一段と激しくなり、低価格酒貿易、資本の自由化、流通戦争の時代に入っていく。
当社では業務全般における改善を行い、小型電子作票機、テレックス等の機械化による伝票会計の導入と内部管理システムの合理化を行って、情報化時代への対応を図った。
また、集配送業務の合理化のため、高田町6丁目に将来を見込んだ当時としては大型の集配送センターを新設し、駅通りの本社事務所並びに倉庫を全部移転してさらなる業務の合理化、効率化を行った。
またこの年、宇都宮の清涼飲料の工場が火災に見舞われ、高田町6丁目の同一敷地内に清涼飲料工場を、宇都宮から移転した。
更にこの年、配送センターに併せて冷凍冷蔵倉庫を併設し、冷凍生そば、冷凍枝豆、冷凍白玉の自社製造に必要な設備も導入し、本格的な冷凍食品の製造に取り組むこととなる。
施設の一角でもち製造を一日10俵から始めたが、これがその後の「生きりもち」のメーカーとしての参入につながることになる。
■昭和46年
米国のニクソンによるドルショック、変動相場制への移行、大幅な円切り上げによる国際通貨激動の影響を受けて、景気は急速に沈滞した。当社においては、長岡支店に酒類卸・小売業免許がようやく交付され、新たな営業活動の開始となった。しかしながら同時に販売免許の条件緩和が実施されたため、新潟県内は全国的にも珍しく急激に卸売業者が増加し、経済不況に加えてこのような要因により、当社の伸び率にも影響があった。
「異業種事業の年」
■昭和46年
当社は新会社「十日町観光開発株式会社」を設立し、ボウリング事業(ボウリング場名:十日町フェアーレーンズ)に参画する。これは当時、十日町市長春日由三氏を顧問に十日町市内の有力者から出資者をつのり、先代坂田領を代表者とした。
しかし、ボウリングブームも急激に去り、母体酒卸の新川屋への影響も考え、当会社はその後3年をもって清算し、十日町農協に売却することになる。
しかしながら、当事業は当社にとって、異業種進出の大事業であった。
またこの年、十日町駅通り跡地に「新川屋ビル」を建設した。最初のテナントとして1階に食品スーパーの「福屋フードセンター(現原信)」、2階に「かどくら」、3階を休憩室とした。
昭和46年/市とともに陳情 田中角栄議員あて(右から9人目 坂田領)
昭和47年/現社長結婚式 左から 媒酌人 春日由三十日町市長
新郎 坂田文男、新婦 坂田みどり、春日つる市長夫人、坂田 領、節子、清水ヒロ(新婦母)
写真左:昭和47年/ボウリング場
左から 当社 小林盛夫、上村澄夫、今井光義、坂田文男、俵山定明
写真右:投げているのはミス十日町
ミスワールド新潟県代表のモデル山谷 薫さん(十日町市出身)
昭和46年/ボウリング場オープンの広告
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